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▼ 社長挨拶


社長


2018年 弊社は創業100周年を迎えることができました。
今まで弊社に関わったたくさんの関係者のみなさまに感謝を申し上げます。
現在に至るまで 私も知らない事柄が
良いことも 悪いことも たくさんあったことでしょう。
しかしその積み重ねを経て今に至ることができました。
今後もみなさまに愛され続けられるよう 成長し続けられるよう
モラルを守り 公正で三方よしの商売を続けてゆけるよう
変化を 努力を 重ねて参ります。


代表取締役  サイン


 

▼ 株式会社 山田弥太郎商店 100年のあゆみ



創業 ~ 第二次世界大戦 戦中



創業者である山田弥太郎は、1885年(明治18年)岐阜県加茂郡八百津町に生まれた。
尋常小学校卒業後、名古屋に出て、鉄鋼問屋として当時有名であった店のひとつ、
名古屋市江川町(現在の浅間町付近)にあった浅井佐六商店、商号:藤屋で奉公した。
1914年(大正3年)結婚。堀川の五条橋の東、名古屋市和泉町(現在の丸の内)に土地を
確保し、1918年(大正8年)頃、独立開業しました。当時はブリキのバケツの取手や、
真鍮のレールや戸車などを扱っていた。


弥太郎 弥太郎 れい
 ▲ 創業者 山田弥太郎  20年以上勤務に精励した後、独立。負けん気も強かった    ▲ 弥太郎の妻 れい夫人



第二次世界大戦も激しくなってくると、物資の欠乏、統制により開店休業状態に。
1945年(昭和20年)弥太郎が他界。


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第二次世界大戦 戦後 ~ 高度経済成長期 ~ 昭和後期



第二次世界大戦の終戦を迎え、戦後の世相も混乱が続くなか、
冨三が1949年(昭和24年)に2代目となる。ねじ、ボルトや建築金物などを
扱うようになり、現在の山田弥太郎商店の基盤となった。


移動手段も、当時は商品を満載した自転車、リヤカーに始まり、
徐々に原付三輪トラックなど自動車を導入していった。
電化製品も徐々に普及し、通信手段も、電話が普及するまでは、
郵便はがきでの受発注もあった。
名古屋城の外堀には瀬戸電(名鉄瀬戸線)が堀川(景雲橋)まで走っており、
瀬戸電で通勤して来る者もいた。
また、来客には抹茶をたてて提供し、商談したこともあり、
お客様には大変好評であった。


社屋 節子夫人
 ▲ 丸の内にあった当時の社屋兼家屋         ▲ 冨三を支えた節子夫人 住み込み社員の食事の世話もしていた
  看板には「フォームタイ」(商品名)と書かれている



業績も徐々に上向き、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風も乗り越え、
1961年(昭和36年)には株式会社として法人に改組。
丸の内の店舗や借りている倉庫では手狭になり、中村区剣町の
現在地に土地を購入し、1971年(昭和46年)に移転した。


社屋 社屋
 ▲ 建設中の社屋       ▲ 移転当時は空き地も多く、道路も未舗装。社屋前では野球もできるのどかな風景



この頃には自動車やトラックはすでに普及。
事務室内には冷房が設備されるようになっていた。
電話が主だった通信設備に、ファクシミリが登場。
図のやり取りや、多品種の一覧表のやり取りが便利になる。
倉庫にフォークリフトが導入されると、荷役は飛躍的に効率的になった。
商品も電気メッキされて段ボール箱に入った形態が増えていった。
油や黒皮にまみれた生地のものを縛るひもも麻縄からビニールひもへ。
袋も麻袋に入れていたものが徐々に少なくなり、ビニール袋へ。
計数の仕方も重量計算から個数計算へと変わっていった。
当時、住み込みで働く人も何人かいたが、こちらも徐々に持ち家通勤になり
働く人達の生活も変化していった。


社屋 社屋  ▲ 新社屋完成当時、玄関前での記念写真。右二人が冨三と節子夫人    ▲ 当時の営業車 自動車がずらりと並ぶ



時代とともに、IT化、電子化も始まる。
当時、専務として仕切っていた3代目國雄の主導で、
コンピュータ(オフィスコンピュータ)を経理、事務作業から導入。
当時の画面は小さく、朱色単色のEL(エレクトロルミネッセンス)画面で、
プリンタもドットインパクトプリンタと紙は連続帳票という組み合わせだった。
日本語ワードプロセッサーを使った文書作成や、値段表といったものも
手書きに代わって見られるようになった。


冨三社長 國雄社長 幸子社長
 ▲ 二代目 冨三社長          ▲三代目 國雄社長         ▲ 四代目 幸子社長


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平成時代




1989年(平成元年)日本でも間接税の消費税を3%で導入。
1995年(平成7年)の阪神淡路大震災後は、耐震建築に注目が集まり、
建築金物の分野でも耐震金物のメーカーブランド品がよく売れるようになった。
後施行アンカーも多品種化が進み、
補修工事などでケミカルアンカーが普及するようになる。


21世紀、2000年代に入ると、3代目 國雄が他界。
冨三、幸子と社長職をつないでいく。
この頃、事務処理のコンピュータも専用機から汎用機に代わり、
Microsoft Windows と カラー液晶画面、マウスとキーボードの組み合わせになる。
通常の納品書も手書きからプリンタ出力となり、事務処理も変化した。
世間も携帯電話が普及し、公衆電話や、移動先で
電話を借りるといったことも少なくなっていった。


2012年(平成24年)晋平が社長に就任。
平成も後期になると、建築金物は世の中の変化、流通の変化により
取扱いが減少傾向になる。代わって、養生材、土木資材などが
増える傾向がみられるようになる。さらに、インターネットの普及で、
あらゆる商品の問い合わせも増えている。多品種少量の需要が増え、
在庫管理や価格管理が煩雑化するなか、コンピュータによる在庫管理も導入し、
判断の客観化、管理業務の負担軽減を図っている。




全体写真
▲ 晋平社長と幸子会長のもとに11名のスタッフが在籍



100年という歳月は世の中をどんどん変えてゆきました。
時には戦争や物資の欠乏といったこと、天災、人災などさまざまな災難、
機械化、情報通信の変化、ものづくりの変化、流通の変化、
さまざまな社会環境の変化が続いています。
変化に合わせて私たちも変化をし続けることは大変なことです。
しかし現在まで私たちを支えてくださっている、取引先のみなさま、
従業員・会社のみなさま、世間のみなさまに感謝するとともに、
これからも愛され続け、お互い成長できる会社になりますよう、
変化に適応しながら事業に取り組んでゆきます。


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